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喧嘩
“かすみ老人”と呼ばれている。逆光に頭部をさらすと、地肌に、かすみ草が生えているように見えるからだと、
命名者の弟が言った。考えてみれば、いや、考えてみなくても十分失礼な話である。余計ななお世話だ、何も好き好んで
こんな姿になった訳ではないのだ。乗り越えてきた幾多の試練と、強烈な遺伝子のおかげでもある。
父親は、私が32歳の時に亡くなった。頭は、いわゆる、“つるっぱげ”で神々しく光り輝いていた。しかも、私は、父の頭部に毛が生えている状態を残念ながら知らない。だから、随分と年季が入っていたと言える。 それにしても、父のことを“ぱげ”などと、書いてしまう私も、相当な親不孝者であることは否めない。 そのせいかどうか、数々の不幸に巡り合ってきた。
それはともかく、現在、訳あって弟と生活を共にしている。彼にしても、もう少しで60歳を迎える、老人予備軍の一人であるが、幸いにして前髪はばっちり残っていて、時として「あら、髪が多くて、手に絡みついちゃうな」などと言う、さらには、「その点“かすみ”だといいよね」とか憎まれ口を叩いたりするが、元来が、頭もよく、実に上品な私をすごく尊敬しているのは、屁をするよりも明らかなことで、
そのことを、的確に見ぬいいる私も大したものだと言わざる得えない。だが、“かすみ老人とは言い得て妙だ。なぜなら、鏡に映る我
頭部を、しみじみ眺むれば、良く解る。それでなくとも、急な雨模様で雨粒が地肌を直撃することですでに悟っていることだ。
まあ、弟にしたところで、頭頂部が薄くなっている事を私は気ずいている。50歩100歩と言ったところか。
普通、本当のことを言われると、ついつい、怒ってしまいがちなものだが、私は怒らない、それは、人間がすごく出来ているからだ。
むかし「見えすぎちゃって困るの、困るの・・・・・」とTVで流れていたことを旧式な人間は覚えていてくれるだろう。そう言った訳で、
「出来すぎちゃって困るの、困るの・・・・」とつい、歌いたくなってしまうほど人間が出来ている。
野村胡堂原作「銭形平次」の“がらっぱちの八五郎”が平次の素晴らしい推理を「あっ、なーる」と納得してしまうくらいである。
そんな訳で、“かすみ状”になっている為に、人々となるべく摩擦を起こさない様に生きて行くことが求められる。
例えば、摩擦お起こすと、喧嘩になったりする。そうなれば、当然、掴み合いや、殴りあいななる。
どちらも嫌だが、特に掴み合いが嫌だ。これでさらに前髪を失うことえの恐怖があるからだ。かすんだ髪は、それぞれが、独立していて、隣の髪からの援助が無い、従って、抜けやすくなるのである。だから、悔しいことではあるが、頭髪を掴まれそうになった段階で
「まいりました、あたしが悪うございました、お許しください」と、謝らざる得ず、涙ながらの敗北宣言となる。そうでもしないと、父同様
“つるっぱげ”状態となる。まさに“かすみ老人”の悲劇である。
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